千葉県鴨川市はこんなところ

鴨川市は房総半島南東部、太平洋側に位置する人口約3万2千人の市です。海岸部は南房総国定公園に指定され、美しい風景が続きます。内陸部は米どころの長狭平野に田畑が広がり、山に囲まれています。天津小湊地区には清澄寺、誕生寺などの名所が立地しています。沿岸部では漁業が盛んです。温暖な気候と豊かな自然環境、豊富な食材を活かし、ゆっくりとくつろげる宿泊施設も充実しています。

鴨川の歴史

<古代>
安房地方は、続日本紀に「元正天皇養老2年5月上総国を割きて安房国を置く」と記されています。長狭地方は、地味が肥沃で、数千年前より原始生活を営む人びとが住んでいました。歴史時代になり、神八井耳命やその子孫などの地方豪族が統治していました。大化の改新(645)以降は、中央から派遣される国司(律令制の地方官)によって支配されました。

<中世>
1180年8月、石橋山の合戦で敗退した源頼朝は安房に逃れ、安房の武士団を集めて再起を図りました。当地域の代表的な在地領主には、東条氏と長狭氏がいました。また、鎌倉幕府執権北条氏の家臣である工藤氏の一族とされる工藤吉隆が、天津を領有していたといわれ、小松原で東条景信に襲われた日蓮上人を救い、討ち死にしました。中世後期になると、安房に基盤をもった里見氏が、在地武士の内紛を巧みに利用して安房を統一しました。

<近世>
江戸時代に入り、慶長19年(1614)に歴代10代、170年間にわたり安房に君臨した里見氏が改易され、以降は代官領・大名領・旗本知行所が混在しました。享保年間(1716〜36)には、里見氏以来の嶺岡牧(みねおかまき)が再興され、幕府の直轄地として経営されました。同牧には白牛も放牧され、酪(らく)(バター)の製造も行われました。このことが、わが国酪農の発祥といわれ、長狭地区を中心に今でも伝統的に酪農が盛んです。

<近代>

明治時代には多くの行政改革が行われました。明治22年(1889)の町村制の施行にともない、長狭郡62町村の合併がすすめられ、新たに太海村・曽呂村・大山村・吉尾村・由基村(大正4年10月主基村と改称)・田原村・鴨川町・西条村・東条村・天津町・湊村 (昭和3年11月町制施行、小湊町と改称)の11町村となり、朝夷郡内の6 村が合併して江見村(昭和3年11月町制施行)が成立しました。なお安房国は、明治30年4月1日に平・安房・朝夷・長狭の4 郡を廃し、1 郡となりました。昭和4年には房総線が開通し交通の便がよくなり、この地帯は農業・水産業の盛んなところとしてにぎわい、大いに発展をいたしました。

<現在>
戦後、昭和28年9月1日に施行された町村合併促進法によって、昭和29年7月1日に鴨川・東条・西条・田原が合併して鴨川町を、昭和30年2月11日には天津・小湊が合併して天津小湊町を、また同年3月31日には大山・吉尾・主基が合併して長狭町を、太海・曽呂・江見が合併して江見町をそれぞれ設置しました。


鴨川町は農業と漁師町としてにぎわう一方、長狭全郷の経済の中心地として、物資の集散地・消費地として商業活動も活発化し、また自然美に富んだ房総の観光拠点基地として発展してきました。長狭町は嶺岡・清澄両山系の間に開けた細長い町で古くから酪農・果樹園芸・米作と農業中心に栄え、また江見町は太平洋岸に面した温暖な気候に恵まれた町で花き栽培が盛んであり、花の江見として名高いところです。この鴨川町・長狭町・江見町の3町は、昭和45年3月12日施行の三万市制特例法に基づき合併市制を施行し、昭和46年3月31日に鴨川市として発足しました。
天津小湊町は、豊富な磯根資源や釣り漁業を中心とした漁業地として、また、清澄寺・誕生寺や鯛の浦などの日蓮上人生誕の霊地や門前町としての特性を有し、風光明媚な観光の名所として広く知られています。


21 世紀に入り、魅力的な地域づくりを進め、南房総の拠点都市としてより発展するため、鴨川市と天津小湊町が合併し、平成17年2月11日に新鴨川市が誕生しました。